2014 5月>
▼子供のころ、「雨に濡れるとハゲるぞ」と言われた。雨にはホーシャノーが混じっているから、というのがその理由。昭和24年の生まれで長野県育ち。いま考えればナンセンスだが、当時の大人たちは、原爆投下にまつわる風評をかなりマジにとらえていた。まさか熱射病対策に帽子を被らせるための方便だったとは思えない。噂が噂を呼び信仰にまでなったのは、放射性物質は色も臭いもなく見えないからだ。いまは「福島県」がそんな試練に立たされている。故ない差別が県民を苦しめているのだ。
▼福井地裁が大飯原発の差し止めを命じた。「福島事故後、安全神話は崩壊した」と、いまの福島原発の体たらくをみても納得だ。それでも〝安全〟を強弁する、国や電力各社に対する不信感はさらに根深い。情報を隠匿し、操作しているからだ。朝日新聞が、政府事故調に語った「吉田調書」をスッパ抜いたが、秘密保護法違反で逮捕されるかも、と瞬間思った。それほどこの手の話はタブー。国民に徒らに不安や混乱を与えるから?冗談ではない。隠匿されれば、それだけ余計に不安や妄想は広がる。「美味しんぼ」問題で、「正しい情報を伝えていく」とした政府コメントに、「正しいってナニ?」とツッコミが入る。
▼福島産青果物の市場評価は、まだまだ回復していない。その余波は北関東から宮城県までに及ぶ。青果物を買ってくれるのは主婦たちであり、とりわけ子持ちの女性は〝安全〟に過敏だ。今年も関東・東北産が出始めても、西の産地からの出荷が最後まで続くだろう。茨城産レンコンの評価を見て、長崎県では新たなレンコン産地が誕生しているほどだ。
▼情報はすべてオープンにしてほしい。日本人と日本社会は成熟しており、情報公開にパニくることはない。いまだに雨が降ると、思わず帽子に手が出る私のような人間を増やしてはならない。
2014 4月>
▼グローバル化とは何か。文字通り世界化だが、世界中が様々に相互交流すること。日本では、狭い島国から世界に飛び出すことだが、世界基準なら相互の行き来の活発化だ。日本にある世界地図は、日本を中心に右が太平洋と南北アメリカ、左にユーラシア大陸からヨーロッパ、アフリカ。しかしこんな地図は世界的には〝珍品〟だ。外国の世界地図は、ヨーロッパを中心に左にアメリカ大陸、右にはユーラシア大陸、そして日本は右の外れにある小さな島国。アメリカでは、この地図を基準に日本を「far-east=はるか東」と呼ぶ。
▼そんな世界の東の淵にある日本は、大陸経由の様々な恩恵を受けつつ、ひとりすくすく育ち、独自の高い水準の文化を築いた。日本は外国のことを〝海外〟と呼び、孤島なるがゆえに外国からの侵略も免れた。その様をガラパゴス島に喩えられるが、まさに言い得て妙である。独自の進化を遂げたものの、それ以上のイノベーションがない限り、進化は止まる。その意味で、いま自由貿易協定を〝環太平洋〟という枠組みで進めようとしているTPPは、賛否の立場を超えて、次の時代の日本を考えるうえで感慨深い。
▼日本が先進国なのは、民主主義国家で基本的人権が守られ、平均所得も高いから。独裁国家や社会主義国家は基本的に先進国ではない。経済力をつけ〝大国〟になったものの、中国やロシアはまだ先進国扱いされていない。国家権力を振りかざして平気で人権蹂躙する国が、ガキ大将よろしく力で仕切ろうとする現状に危機感を抱かない人はいない。こうした国は、為政者の都合で〝国益〟をデッチ上がるのが特徴だが、ちょっと待てよ、わが安倍晋三クンもTIME誌で〝独りよがりの愛国者〟と揶揄されているぞ。
▼国益と称して自己の信念の実現を謀る。日本もアブナイ国だと思われそう…。
2014 3月>
▼消費税が3%上がった。3月には駆け込み需要を想定してか、わが業界でも春フェアにからめた売出しも目立ったが、大型消費財や貯蔵性のある食品は売れても、生鮮の野菜や果物の売れ行きはイマイチだった。相場の流れは、短期的には物価の流れと連動しないのだから、生鮮品は物価指数の対象になっていない。ただし過去20年といったスパンでは、長期の景気低迷と青果物の相場の流れはたしかに相関性がある。相場の安値傾向が、国産の減少を招いたことは明らかだ。生産・流通業界はこぞって〝前年対比〟という近視眼に陥っていた反省が必要だ。
▼今回の消費税率改定では、仲卸業界などのベンダー業界が求めていた「外税方式」が採用されることになった。同時に、増税分を仕入れ価格に含めるなどの要求は、優越的地位の乱用として、厳しく監視される。198円の店頭売りに合わせろ、といった押し付けに従っていては確実に3%の利益を削られる。これまで仲卸など納入業者に価格調整が丸投げされてきたのだから、建前的には随分改善された。が、禁止されている〝消費税還元セール〟だって、そのうち形を変えて復活するに違いない。
▼某デパートが、4月以降に使えるクーポンを配っていた。増税後にも売り上げを確保するためだともいうが、納入業者も〝協賛〟を強いられることは間違いない。知恵者はいるものだ。しかし窮地に発想を変えるということ自体、悪いことではない。日本は、農産物輸出が輸入の5%程度しかない世界一の〝入超国〟である。これを改善するには輸出拡大しかない、というが、「貿易収支を改善」するには〝輸入を減らす〟という別の視点があるはずだ。
▼米を飼料化する大盤振る舞いの補助制度が始まる。穀物・飼料としてのトウモロコシ生産が北海道で開始された。生鮮野菜類なら国産化が可能な品目は、実はたくさんある。
2014 2月>
▼傲慢な人はいるものだ。知人なら付き合わなければ済むが、これが一国の首相ということになると、国民はたまらない。恥ずかしいばかりでなく、恐怖さえ募る。「アクセルばかりでブレーキはなく、右ハンドルしか切らない車」などと共産党は揶揄しているが、もはや、からかっていればいい程度を超えている。低迷した経済と震災に連なる不安感を逆手にとって、さらに自ら中韓からのバッシングを演出してまで愛国運動を盛り上げようとは姑息である。やりたい放題、し放題。最近の自信満々ぶりは悪相ですらある。自民党でさえ良識派の声は聞こえず、党内は思想統制が行き届いているかのよう。NHKの報道姿勢も最近ギクシャクしている感がある。
▼不安感はカリスマを呼び、独裁政治を許容する。たしかに、国民は〝決められない政治〟にはイラだったが、では〝即決政治〟で安心するのだろうか。「私が責任者。だから私が決める」とは思いあがりもはなはだしい。膨大な借金までして豪勢にカネをつぎ込むアベノミクス、大企業偏重の成長戦略に、国土強靭化だあ?族議員のシタリ顔が、ゾンビのごとく蘇っているぞ。挙国一致内閣が必要だった未曾有の震災時に、高みの見物を決め込んだ自民党が、いまやわが世の春とばかり浮かれている。その得意絶頂ぶりに、「驕れる者は久しからず」と頭の中でリフレインする。
▼独断・即決の政治でも、きちんと要点を押さえて効果が期待できるならガマンする。しかし、農業分野でいえば相変わらず生産側にカネを注ぎ込む6次産業化や減反廃止、かと思えば農業改革委員会を経済界で固めるという極端ぶり。企業的農業が国際競争力を増強するという筋書きの成長戦略は、あまりにも教科書的でシラける。聖域論を踏み越えそうなTPPも、水面下で4兆か5兆か知らないが〝慰謝料〟が成立したのか、とも勘ぐってしまう。
▼もっとも〝企業的農業〟も、わが流通業界を念頭にカネを出すなら、許してやるか・・・?
2014 1月>
▼知人からご子弟の就職の斡旋を頼まれた。家業は、成長著しい産地型仲卸だが、大学卒業後は3~4年程度、他市場で修行してから帰りたい。ついては日本一の市場である大田市場で働いてみたい、という希望だ。本人は体育会系の素直な好青年である。青果業界の将来を信じ、希望に満ちて業界入りしてくれる意向なのだから、喜んで斡旋の労をとっている。ところが、懇意にしている仲卸企業経営者たちに、昨年末から接触しているのだが、なかなか受け入れ先が決まらない。大きな理由は、働く期間が3~4年と短いこと。じっくり人材を育てたい、と思っている経営者にとって迷惑な話であることは、よく分かる。
▼しかし何回か面接に立ち会ってみて、気がついたことがある。経営者たちは、異口同音に、仲卸業に入ることはいつでもできる、その前に、小売店で末端の需要や消費者の意向を知ること、あるいは海外に出かけて日本という国を外から見ること等々、「若いのだから、様々な経験をしてほしい」と真剣にアドバイスしてくれることだ。断りの口実ではない。彼ら自身が体験から学んだ、本音であり希望であるのだろう。それは、仲卸業は仲卸の修行をすれば済むという話ではなく、これからの「仲卸業」はどうあるべきか、を問いかけているのだ。
▼仲卸は、流通機能を実質的に担う存在でありながら、制度面でも経営体質面での優位性があるわけでもなく、需要側からはアゴでこき使われ、様々なリスクを一身に背負っている。現実には、労働環境にも恵まれず資金繰りにも常に苦労続きである。それゆえに、流通のプロ、商品のプロを任じ責任を果たし矜持を保っていなければ、とても耐えられない職種である。だから、その位置づけを自ら認識するためには、自己を客観的に見ることができるよう様々な体験が必要なのだ、ということになる。
▼彼の就活はいま最終段階である。本人の意向を再度確かめながら、できれば希望をかなえてあげたい。が、仲卸こそは流通のカナメ…などと訴えてきながら、では「仲卸としての人生」とは何か、に思いが及ばなかったわが身の不明を恥じている。
2013 2月
▼「景気」というのは、どうやら「気」の問題であるらしい。〝景気をつける〟などとはいうが、なにやらカラ元気といったイメージだ。しかし、安倍政権になって公共事業にバラまくぞ、と言った途端、株価は上がるは円は安くなるは…一体どうなっているのか。日本人はどうやら、長年の〝自民党政治〟に体が慣れてしまっていて、3年の民主党政権時代には、雌伏状態だったのだろう。復活した自民党のセンセイ方に群がる、あの地方の人々の物ほしげな表情とセンセイのドヤ顔が、何やら忘れたものを思い出す…?
▼予算の執行はまだないし、その経済効果が姿を現したわけではない。が〝景気づけ〟に打ち上げた、デフレ脱却、成長戦略など3本の矢。束になっているのだから自民党政治は折れないのだ、という強弁まがいのアナウンスだけで、これほど「気」が盛り上がるのは異常だ。それだけ、国民のフラストレーションが溜まりに溜まっていたことだけは事実だろう。ある意味、民主党はスケープゴートになったのだ。ま、おベンキョウのし直しですね。
▼産業競争力会議で「農業」を成長分野と位置づけてくれたが、とりあえず喜んでいるのは農業土木関連業界だけ。あくまでも気運としての盛り上がりであり、消費者はまだその恩恵を受けていない。だからわが業界にも、経済効果としては見えてこない。ただし、株で資産運用しているシニアなどは少し気分が違うかもしれないから、小売業界などはシニア戦略をさらに強化してくるだろう。余裕のあるシニアはもともと金持ちだし、あまり買うものもない。そこを何とかお金を使ってもらう作戦だ。
▼わが業界なら、高級品の果物といったところだが、数量は知れている。いっそのこと箱で買ってもらう作戦を仕掛けたいもの。お金があってもなくても、シニアは子どもや孫には気前がいい、という〝法則〟を応用するのだ。
2013 1月
▼今年になって初めて得たインスピレーションは、「脱成長」というコンセプトだった。不況からの脱出といっても、昔の成長時代に戻るわけではない。消費低迷を打開したいが国民が飢えているわけではない。デフレ脱却のためのインフレ目標とは、いま買っている同じものを2%値上げする、という発想のものだ。単純に「パイを大きくする」という意味での成長は、いまの日本では過去のもの。拡大すべきマーケットとは、いまや海外にしか存在しない…のか。
▼とはいっても、これまで経済の成長とは、幸福実現の手段であった。所得が増えて欲しいものが買える、物の豊かさが幸福感をもたらす、そんな成長神話は確かにまだある。しかし、いまのマイナス成長時代は不幸なのか、豊かではないのか。所得は減っても物価は下がっている。マックは100円、牛丼は250円で食べられるし、ユニクロは若者からオジさんまでご愛用だ。一方、高いおせち料理や高級旅館は結構な人気だ。日本や日本人は、環境対応能力が高いというか、ハレとケの使い分けができてきたというか…。
▼成長していなくても、それなりの豊かさは現にある。が、企業の論理からすると成長戦略は欠かせない。それなら、足し算の成長ではなく、これからは「置換」による成長、「脱成長」戦略という視点が必要だ。公共財をリニューアルすることで生まれる事業需要や、輸入原材料を国産化することで発生する園芸振興、生産者の直販意欲を満たすための直売所をインショップに振り分けても、「置換」効果がすぐに期待できる。
▼少子化は、女性が高所得化し教育資金が少なくて済む。高齢化といっても、アクティブシニアには現在の消費生活をさらに高額な消費財に「置換」してもらえる。要は、売り手側の提案型戦略のいかんにかかる。脱成長時代でも、豊かさは実現できる。
2012 12月
▼平成25年は、お金に縁があるといわれる巳年である。政権与党も替わって、何となく「カネ回りが良くなる年に?」と期待する向きもあろう。たしかにTPPの落しどころの〝相場〟は上がるに違いない。多党乱立の藪をつついたら、出てきたのが改憲右傾の蛇?同じカイケンでも、快剣乱麻の不況斬りであってほしい。あれだけ悪かった昨年が辰(龍)年、今年が巳(蛇)年だから、ひょっとして、昨年より尻すぼみになる(龍頭)蛇尾か?といった不安に陥るのはやめておこう。
▼蛇(じゃ)の道は蛇(へび)などともいう。シロウト集団だった民主党に対し、常に政治巧者を自認してきた自民党に、クロウトの政策運営を期待したい。蛇(じゃ)はその音から邪に通じるといわれるが、ヘビならラスト・ヘビーのheavyで馬力をかける意味だ。ちっとも進まない、決まらない政治を脱して、不況打破に向け馬力アップのスピード感が求められる。
▼民主党の3年3ヶ月は、折りしも卸売市場制度が大きく変容した時期にも重なる。中央から地方へ、公から民へといった規制緩和、悪く言えば公による責任放棄の流れを作ってきた。自民党が築き上げてきた市場制度を、あたかも民主党が崩壊させた、という見方もできる。自民党の復活で規制強化の時代に戻るとは思わないが、少なくとも防災都市機能強化には巨費を投じると明言している。いうまでもなく、災害時の卸売市場の役割は大きいことを考えると、公設か民営かにかかわらず、市場機能強化に予算をふんだんに使ってくれる…、な~んて初夢をみましたとさ。
▼政権が替わっても、地方主権への流れは止めてほしくない。地域が、その個性や実情に合わせてカネを使える仕組みが求められる。大量生産された自民党のセンセイ方、そこんところヨロシク!
2012 11月
▼いよいよ衆議院議員選挙だ。民主党は〝頭を丸めて〟出直さなければならないが、さて、では反動で自民党を大勝させていいのか、という迷いはある。とりわけ、自民党の安倍晋三総裁のあのはしゃぎぶりをみるにつけ、〝悪い予感〟がする。敵前逃亡同様の元首相であり、なによりも昨年来、未曾有の危機にも与党の足をひっぱることだけに終始していた自民党に、好感を抱く材料がない。いまから、景気対策であれだけ大口をたたいていいの?と不安感だけだ。
▼政策面からみても、こんなに党が乱立しては選択を絞り込むこともさえできない。わが青果業界にとって、どの党が好ましいのか…。農業界はこぞってTPP反対のパフォーマンスを崩していないが、生産業界の顔色を見ながら反対に組している流通業界は、むしろ市場開放と競争原理導入は歓迎だ。国の政策が期待できない流通業界にとって、地方主権の流れを作ってくれる党を支援したい。それなら民主だろう、いや維新だ、自民だって…等々、実に選択に困る。
▼流通業界のひとつの焦点は、どの政権が選択されようとも、生鮮食品を消費税対象外にしてもらうこと、それが適わないならせめて外税方式にしてほしいという点だ。あとは、農業界のTPP条件闘争の〝落としどころ〟だといわれる「4兆円」。今度こそ多少の〝おこぼれ〟があれば…、といったささやかな期待だろうか。規制緩和という国の責任逃れの海に、自己責任という帆船でさまよい、あちこちで浸水して淘汰の嵐に遭遇しているわが業界。この業界こそが、生産を支援し消費者に利益をもたらすことを、本当に理解している党はどこなの?
▼来る選挙には、組織動員をかけられる会社も多そう。とりあえずは、地元のセンセイを支援しなければならないのだろう。せめて〝選挙特需〟で、夏の損失を埋めましょうか。まずはメシのタネはゲットしとかないと…。
2012 10月
▼この夏、野菜は暴落した。東京市場での平均単価は8月で191円、9月194円と下落を続け、とくに9月は過去10年で最低の水準だったという。猛暑だったといっても旱魃というほどでもなく、昨年の同時期の単価高も手伝って、今年は作付けも増えたところに豊作基調となった。〝適度に〟台風も襲来せず、消費者に買い溜め気運があった昨年に比べれば、今年は消費もついてこない…。かくして暴落商状。産地廃棄も効果がなかった。これで来年の夏秋野菜の作付け減が決まったようなものだ。
▼相場が高かったら作付けが増え、安かったら減るというパターンは、生産者心理を考えたら無理もないのだが、その場合の判断として「安いのは過剰だから」という見方は非常に危険だ。バブル崩壊後の経済の低迷期に、野菜相場が低落ぎみだったのは、世の中の物価が下がったためであって、「過剰」だったわけではない。にもかかわらず、国内の野菜生産量は平成18年ごろまでの10年間で220万トンも減少した。その結果、中国産などの野菜類輸入が240万トン分もの規模に膨らんだ。
▼この8月、国内相場暴落もあって、さすがに生鮮野菜輸入は前年比16%程度の減少をみせたが、一方で加工野菜についてはなんと12%の増加だ。生鮮以外のとくに加工野菜などは、国内の豊凶に関係なく原材料調達できるように、海外依存にシフトしてきている。その移行時期が、バブル経済崩壊後の10年に集中していることは疑いない。あのとき「国産野菜は過剰ではない」と、誰かが生産継続を訴えるべきであった。
▼このミスリードの責任は、まず第一には国など行政や全農など生産者組織であるが、それだけではない。相場安を安易に「供給過剰」のせいにして言い訳をしていた卸売市場関係者、そしてわれわれマスコミも責を負わねばならないだろう。
2012 9月
▼恐れていた〝チャイナ・リスク〟が現実になりつつある。というよりも、中国社会が持つ、潜在的な危うさの〝馬脚が現われた〟というべきだろう。中国人民が、すべからく〝愛国的〟で凶暴なのではなく、そこまで人民を駆り立てる独裁国家のヒズミの問題だ。日本も、経済力が衰退ぎみで政治は大混迷状態。まさに〝弱り目に祟り目〟というやつで、ここにも、いじめる方が悪いのか、いじめられる方も理由があるのか…、などと物議をかもしそうだ。
▼日中友好の精神のもと、多くの企業が中国の発展に献身的な寄与をしてきた。暴徒から焼き討ちされた企業の無念さは、想像に余りある。野菜類も加工品を含めれば200万トン近くを輸入する日本に、〝恩を仇でかえす〟仕業である。その主要な産地のある山東省の主要都市・青島での暴動が、最も大きかったことに落胆している企業も多かろう。「君子とは―」「大人(たいじん)とは―」を教わった国なのに…。
▼チャイナ・リスクへの対策として、ベトナムやインドネシア、さらにカンボジアなどへ、輸入先を換える動きもある。さらなる投資や技術援助の強化もまたれる。しかし忘れてはならないのは、加工業務用の比率が高い輸入野菜を、国産に置き換えていく必要性である。「相場が下がったら供給過剰」だと判断してきた行政や農業団体は、いまこそそのミスリードの贖罪のために、頭を丸めて出直すべきだ、という指摘は正しい。
▼しかし、新たな方針を打ち出し、制度を整えたとしても、それを生産農家に納得させ生産を誘導できるのは、顧客の具体的な要求を知悉する流通業界である。第6次産業化のためのファンド作りを目指して、農水省は流通業界にも声を掛けているが、その仕組みは生産者の主体性が生きるものと規定している。が、安ければ生産をやめてしまう生産者の〝主体性〟を矯正できる、良導者こそ必要なのだ。
2012 8月
▼ロンドンオリンピックを見ていて、日本を、日本人を思った。金メダルは7個にすぎなかったが、メダル総数は史上最高の38個だ。レベルは世界のトップクラスにある、が、必ずしも1等賞には固執しない。メダルの色はそれほど重要ではない。それぞれベストを尽くしたなら、それで充分だ…。感激をありがとう、といった気持ちだったのではないか。少なくとも、金以外はメダルじゃない、という感覚は薄いと思う。意欲が足りないのか、成熟社会になったのか、だ。
▼経済の低迷が、日本人からやる気と自信を奪ったともみえるが、強いもの、優れたものを素直に評価するフェアな〝大人の〟精神が芽生えているのだと思いたい。しかも個の力は低くても、集団で連携することで大きな力を発揮する日本人の特性も証明された。キーワードは「絆」である。他者を思いやる心、それに報いようとする心を、日本人は大切にし誇りにしている。単なる〝チームプレー〟ではないのだ。役割分担を明確にした上での協働作業、一心同体ともいうべきものだろう。
▼他者を犠牲にし押しのけてでも独り勝ちする、それを〝どや顔〟で他人を睥睨する、というどこかの国のような価値観は、もともと日本人にはない。上に立つものほど腰を低くし、敗者を慮り尊厳を傷つけない。「私ひとりの力ではなく、皆さんのおかげです」と付け加えることを忘れない。日本人は、そんな精神性に回帰しつつあるようにみえる。
▼果物の早だし競争をして東京市場で1等賞をとるより、夕張メロンやルビーロマンの初物が、地場の札幌や金沢で最高値を出すことのほうがニュースになる。地場産を地域がより評価するという、いわば絆から生まれたご祝儀相場だからだ。もはやそこには、「東京市場でなければならない」との意識はない。それにしても、あの独り勝ち会社の〝どや顔〟が最近、目に余る。
2012 7月
▼やや早めの梅雨明けだと思ったら、やおら夏本番だ。しかも猛暑ぎみである。同時に、北関東から東北地方産の夏秋野菜類の本格シーズン。そこで焦点は、いわずと知れた福島産の果菜類の行方である。ここまでの天候推移は誠に順調で、7月上旬現在ではキュウリ、トマト、ピーマンなど主要果菜類は、前年同月比15%~2割以上の入荷増。中旬に至ると品目によって高温障害が出て入荷が減ったものもあるが、増減関係はなく、価格は総じて安値傾向である。中でも福島県産は、主力のキュウリを筆頭に、すべてが平均価格を下回る。できれば買いたくない…、という買参人の気配が伝わってくるようだ。
▼卸売市場レベルでは、確かに福島産も安ければ動く。小売店も、大手を中心に〝社会的責務〟として「福島支援」の名目で品揃えする。が、もともと仕入れ値が安いものに値付けするから、どうしても店頭価格も安くなる。安いのを幸いに、買ってくれる消費者がいる反面、「福島支援なのに、なぜこんなに安いのか。小売店が買い叩いているからか?」などと、かえって小売店のイメージダウンになるケースもある。ただでさえロス覚悟の品揃えなのに、そんなリスクもあるから、ますます敬遠する小売店も増える。風評被害は手に負えないのだ。
▼いま生産、流通を全国レベルでみると、「福島抜き」の産地地図が作られつつある。品目によっては福島産に代替できるよう補完産地が登場するまで時間がかかるケースもあるが、「福島の補完」という明確なターゲットがあるだけに、産地化はやりやすいのだろう。この先、仮に福島産が消えても、流通全体でみればそれなりにバランスしていくことは間違いない。
▼しかし、福島県の農家にとっては〝福島の代替〟はあり得ないのだ。「キュウリビズ」など産地間協働で、相互扶助にも期待したい。
2012 6月
▼民主党が分裂した。修正主義者の野田総理に対して、原理主義者・小沢氏が〝民主党本流〟を唱え、離党した。その「原理」であるマニュフェストこそが民主党支持の基盤だ、というのが原理主義者の論拠なのだが、思い起こしてほしい。けして国民は、民主党の主義主張を選んだのではないのだ。自民党の一党独裁状態が、あまりにも長すぎて独善的、閉塞状態だったから、〝自民党以外〟に票が集まったにすぎない。「国民にお約束したのだから」を金科玉条にしている小沢陣営だって、ホントウはそれを知っているはずだ。
▼原理主義と修正主義は、どんな時代、どんな組織でも対立を生む。ともに歴史や現状認識を前提とした〝見解の相違〟だけに主流派争いは熾烈だ。しかも、それぞれが世論を代弁していると強弁する。一般庶民がどれだけうんざりしているか、にはお構いなしだ。しかし、そんな状況も、少し俯瞰してみるとある意味、健全な民主主義だともいえる。国民の選択肢が明確になるからだ。論点を明確にして分裂する民主党、ただただ傍観し邪魔さえした自民党、どっちの尻馬に乗ろうかと迷走した公明党…、早く総選挙をしてほしいもの。
▼原理主義といえば、わが国の農業業界もガチガチの原理主義である。農業=米作であり、TPPは国を滅ぼす論、単価至上主義、農家被害者論等々に固執し、〝日本農業党〟には修正主義が台頭しない。農業補助金という莫大な〝政党助成金〟の分配組織である農業党から、敢えて離脱する農家はいない。生産法人を組織するなど意欲ある農家は、本質的に修正主義心派だが、農業党内部で分裂騒動を起すわけではない。その一方、食料生産を人質に取られているから、国民に選択肢はなく、面従腹背でも日本農業党を支持するしかない。まるで一党独裁国家のごとくである。
▼せめて流通業界は、修正主義心派を支援して、健全な農業を促進したいものだ。
2012 5月
▼日本のファイブ・ア・デイ協会が10周年を迎えたという。91年にアメリカで立ち上がり、現在では30カ国で展開されている、健康のために野菜・果物食べましょう運動である。同協会では10周年を期に、野菜、果物の量の目安がひと目でわかる表示マーク「ポーション・インジケーター」を普及させようと、この5月から会員であるスーパーや外食産業等での表示ラベル貼付を始めた。野菜でいえば、1日の摂取目標の350gを70gづつ5つのマークで表示するものだ。会員企業の自主表示だとはいえ、運動の趣旨は分かりやすくなるだろう。
▼しかしその一方で、同様の運動を展開している「ベジフル7」との相互関係はどうなっているのだろう。農水省からの予算は仲良く半分にして、報告書も最後にはまとめて出しているようだが、同じく「国民の健康生活」を目的にしている運動なら、一緒にやるほうが建設的だ。が、両者ともそっぽを向いたまま。国内の生産者団体や市場業界はベジフル側で、ドールの支援が大きく資金量豊富なファイブアデイ側という対比のせいなのだろうか。
▼今回のポーション・インジケーターの対象食品もカット野菜・フルーツと惣菜、弁当だけにとどまっている。ファイブアデイ側に所属するカゴメや伊藤園の「野菜生活」など、これ1本で野菜1日分というコンセプト食品こそ、野菜摂取の目安がほしいのに、なぜか見送りだ。さらに、ジャガイモ、サツマイモ、サトイモなどのイモ類は「栄養成分からみて野菜とは認められない」のだとか。厚労省見解ではなく農水省見解をご採用のようだ。
▼会員構成や団体、省庁によるセクト主義、会員間のご都合主義は、さらに排他主義を呼んで、いったい誰のための運動なの?という素朴な疑問に到達する。せっかくの、国産も輸入品も含めた、野菜・果物をたくさん食べましょう運動でしょう?
2012 4月
▼長年、懸案だった母方の祖父母の墓参のために、佐賀、福岡に行ってきた。事情があってこれまで墓所さえ知らなかったが、ようやく探し当てた。後生の悪さを懸念したのではない。これまでの〝自分発見〟の旅の過程で、常に逃れ得ない母方の「血」との対峙があった。そんな消耗戦に決着をつけたかった、のだと思う。回りくどい言い方をしたが、要は、「血は争えない」「血からは逃れられない」ということ。
▼青果物業界に40年近く身を置いていると、この業界には独特の〝匂い〟があることに気がつく。野菜、果物の生産農家やJA担当者から、セリ人、仲卸業者、そして小売店のバイヤーまで、〝青果物の匂い〟がするのである。これは水産、花卉、肉の業界とははっきり違う。極端にいえば、見ただけで分かるのだ。ある意味、これは「血」のようなものだな、と思う。人の場合は遺伝子を、青果物業界の場合は同じ商品を共有していることからくるものだろう。
▼同じ血、同じ匂いを持つ者同士は、相互理解が早い。相手のことがよく分かる。あまり近いものだから、人の場合は近親憎悪ということがあるが、同じ〝匂い〟を持つ場合にはどうか。業界基盤を共有しているだけに、そこに利害対立はあるが、本来は、相互理解を深化させるのに役立つはずだ。かつて市場業界には、卸・仲卸・買参の〝三位一体〟のスローガンがあったが、それは、利害の対立はあっても市場業界をともに盛り上げよう、という意識の所産だ。
▼いま、生産業界が流通業者や製造業者を外して消費者に直売したり、量販店バイヤーが、販売リスクを流通業者に丸投げして納入業者を見殺しにするといった、血も涙も〝匂い〟もない〝1人勝ち〟が横行している。それはないでしょ。同じ血を引く義兄弟~♪じゃないですか。
2012 3月
▼震災から満一年を過ぎて、ようやく東北地方にも春が来た。各地で、様々な新しい芽吹きが始まっている。岩手県の北の果て、青森県と境を接する二戸市では「にのへ産業チャレンジ支援事業」を市民から公募し、1件100万円程度をめどに起業を支援する事業を始めた。古くからの漆工芸や桑園を復活させ桑を使い商品化、伝統工芸である組木細工、交通弱者対策や商店街活性化を目的にした買い物サービスなどに、若者たちが続々と手を上げている。
▼草食系男子が増えているともいわれる昨今、頼もしいかぎりである。そんな新しい芽吹きがあるというもの、伝統や人と人とのつながりを見直そうという精神的な回帰現象がみられるのも、哀しいことだが、震災という極限状態を経験し、ガレキの中からだこそ余計に力強く芽を出すからなのだろうか。少なくともぬるま湯の中からは生まれてこない芽吹きである。混乱期に咲く花は力強く美しいという言い方もある。いずれにしても、いまの日本人が忘れてしまった活力であるのだが、それが東北地方では蘇生しているのだ。
▼過去において、日本の産業も、そして農業でさえも、自由化など外圧があって初めて活性化した。自己啓発や自助努力というものには限界があり、復興や競争など止むにやまれぬ状況に置かれない限り、人は能力を十全に発揮できないものらしい。心理的にいっても〝火事場のバカ力〟ということは現実にある。しかし〝火事〟が発生するのを待っていることはできないから、そんな状況を意図的に創り出して〝バカ力〟を誘発させようとする。それを、モチベーションとかインセンティブとか、なぜかヨコ文字で表現しなければならない現代は、やはり必死さが足りない。
▼東北の若者たちが、日本の停滞感を刺激するバックファイヤーになってほしいもの…、あ、またヨコ文字になってしまった。
2012 2月
▼今年ほど「春」の訪れが待たれる年はないはずなのに、2月下旬になっても梅が咲かない。まるで、3・11の一周忌が来るのを拒んでいるかのようだ。寒さに縮こまっている様と、進展しない復興や停滞する政治、EUの信用不安などによる不安定さが二重写しになる。消費者は猫のように丸くなって、買い物にも出かけないのか、消費指数も上がってこない。かつて領土と人身を陵辱されたヨーロッパ諸国が、いまや助力を頼んで日参するまでになった中国は、寒さの中、雪にひとりはしゃぐ犬のように見えてしまうのも、なかなか春が来ない日本の僻目か。
▼それにしても朝鮮半島は元気である。異常なほど恰幅のいい若大将・金正恩が、寒さにもメゲずに軍人を〝指導〟していうサマは、北朝鮮のカラ元気の象徴で噴飯モノのはずなのに、なぜかバイタリティーを感じてしまうのは?韓国が農産物の輸出拡大を目的に、輸出専用の農地を造成して大企業を誘致する、といったセッカチさは〝お笑いモノ〟のはずなのに、その政治のスピーディーさを妬ましく思う?アレもコレも日本が欝状態に陥っているからだろうか。天候も政治も経済も、ちっとも「春が来ない」からだな、こりゃ。
▼とはいっても、春は来る。いや長くなった陽射しをみると春は来ている。木蓮も咲きたそうにしている。寒波の襲来が続いていて雪までちらつくから、まだ冬だぞと思わせたいのだろうが、どっこい、ダマされない。緊急財政出動のため大借金までして、あれだけ復旧・復興に大金をつぎ込んでいるのだ。その経済効果が出てこない訳がない。
▼いまのところ、建築関連業界の活況と災害地付近の歓楽街の大繁盛といった局部的な現象だろうが、経済の浸透圧効果で、カネは天下に回り始める…、と思うヨ。春よ来い、早く来い…、などと歌いながら、赤いマフラーでも巻いて外に繰り出そう!
2012 1月
▼この冬は、ちょっと異常である。年内から全国的に厳しい低温が続き、関東地区ではひと月以上、降雨がない大干ばつ状態だったり、日本海側では例年にないほどの降雪に見舞われている。葉物や果菜類は高騰し、リンゴやミカンも高い。卸売会社業界にとっては売上げになるから実績好調というところだろうが、無理な数量調達や価格調整を押し付けられる仲卸業界にとっては、悪夢の日々だ。ただし、ハクサイやレタスが入荷の感触より強含みなのが、外食需要の引きが原因だとすれば、朗報なのかもしれない。
▼こんな異常気象なのだから高騰も仕方がないが、それにしても、とくにここ1~2年、国内生産に奥行きや幅、供給力がなくなったと感じるのは私だけではないだろう。出てくるはずのものが出ない、あるはずのものがすぐ無くなる…。各産地の作型のダブりも薄くなっているし、貯蔵性のある野菜・果実についてさえも、いつのまにか終了してしまうことが多い。だから、流通のプロたちの予測がなかなか当たらなくなっているのだ。これでは、10日も2週間も前に値入れをしなくてはいけないスーパー対応は破綻する。
▼その一方で野菜の輸入はジリジリ増えている。平成23年も生鮮野菜輸入は90万トンに迫ることは確実だ。増える要因は、中国産などの外国産は原価が安いから、円高だから、国産が高騰するから…ではない。国産の供給が安定してない、当てにならない、数量が確保できないからだ。いまこそ野菜は増産して供給力の充実強化を図らなければならないのに、なぜか、政府の出す中長期の生産見通しや需要見通しは、どれも横ばいから漸減傾向を示している。
▼にもかかわらず、TPPがらみを含めて、農業振興予算は大盤振る舞い。JA単協の販売事業の筆頭は、例外なく「直売所の充実強化」…。このチグハグさは、一体、だれの責任?
2011 12月
▼卯が脱兎のごとく逃げていき、昇り龍のような辰年がやってくる。災厄の余りにも多かった年を振り捨てるように、国民は新年を迎えたいと願う。今年こそはいい年であってほしい、少なくとも希望の光が垣間見える年に…と。そこで今年は辰年である。辰といえば「龍」であり、あまり龍の生態は知らないが、なにやら威勢良く空を飛ぶらしい。不思議なことに十二支のうち現物を誰も見たことがないのが龍だが、想像を逞しくできる分、思い入れも強い。昇り竜のように運気も上昇してほしい、というところだろう。金正日亡き後の北鮮国民も同じ思いか…。
▼龍といえば、中国の皇帝の象徴でもある。中国も同じ辰年だから、さぞ意気揚々。さらに中華思想マル出しで、ひんしゅくを買いながらも世界を睥睨するに違いない。孔子や孟子など偉大な思想家を輩出した国とも思えない所業だが、諸行無常、今年は一転して降り龍になりかねないという観測もある。経済成長率以上に紙幣の増刷をした結果、不動産投機が過熱。その抑制策でインフレに陥っているところにユーロ危機だ。ユーロ経済のドミノ倒しは、最後に中国経済を襲う、という見方だ。
▼欧米の国債を買い漁ったツケも回ってくるはず。その点、日本の国債発行残高はGDPの2倍近くとだはいえ、国内保有率は9割以上だから、家族に借金しているようなものだ。金利の低さに誰も文句は言わないし、まして〝貸しはがし〟もない。いま日本は復興途中であり、日本人は皆、内向きで「絆」を大事にしているから、外国から付け入る隙もない。円高もあって外国から稼いでくる金は少ないながら、身内で融通し合って大金を作り、復興という緊急支出をして国内で金を回している。
▼時ならぬ内需拡大は、徐々に経済活性化効果となって現れてくるか…と、初夢を見たような見ないような。ロン(龍)!とハネ満くらい当てたいものデス。
2011 11月
▼ブータンから若き国王と王妃が来日した。その立ち居振る舞いと言動を見て、多くの国民が心和ませたのではないだろうか。控えめな態度と堂々とした話し振りに不思議な調和がある。それを見聞きして、清清しさと床しさを感じるのは、人としての価値観、信義、正義といった言葉が嘘のない自然態で語られていたからだろう。日本人が久しく聞くことのなかったフレーズに、忘れていた何かを思い出すような気持ちにさせられたのだ。そう、それはまさしくアジア人の精神文化ではなかったか。
▼独裁にしがみついて、民を不幸のどん底に陥れている国、とうとう民衆が結集して国家体制を崩壊させた国などに溢れている。ところが、ブータン王は国家主権を敢えて民衆に禅譲し、しかも国家の価値観を「国民総幸福」に置く。経済の急成長を鼻にかけた後進大国の〝ドヤ顔〟ばかりが目立つ今日この頃。久しぶりに「こんなすばらしい国があったんだ」と感激して、なにやら目頭が熱くなる。イイ思いをさせてもらいました。王妃もカワユかったし…。
▼国家が国民を不幸にしない、それは近代民主主義国家の要件だ。また、人としての矜持と見識、真摯さや謙虚さを併せ持つことが、いわゆる大人の条件でもある。政治家も一般庶民もそれは重々承知でも、なかなか試行錯誤ばかりで目標調達は難しく、努力を怠れば「小人閑居して善を成さず」状態に甘んじる。経済も社会も情勢不安が蔓延して、逃避のように〝癒し〟が追い求められる…。そんな日本に、ブータン王夫妻は何かを残した。
▼基本的に、気持ちのゆとりが消費を生むのだ。ゆとりは、満足感や安心感、楽しさや嬉しさから生まれるもの。そんな意味では、今年は「ゆとり」から最も遠い年であり、いい消費が生まれなかった。安さや脅かし、緊急性で生まれた消費は不幸である。
2011 10月
▼登山していて山中の飲食代が高いのは、コストがかかるから仕方ないと思う。しかし、旅館やホテル、さらに列車の社内販売の飲料水などが高いのは納得できない。最近ではホテルなどの付近にコンビニがあるから、買いに行く手間さえ惜しまなければ、不快な思いはしなくてすむが、動いている列車内では、他のチョイスがないことをいいことに、高く売っている。悪質である。関税引き下げを阻止して、チョイスを与えず高いコメを押し付けている農業界に、国民はそれと同じ不快感を持っているはずだ。
▼販売の工夫もせず、競争も避けて、付加価値を感じさせないまま高い価格で売れるのは、世界広しといえども日本のコメだけだ。何度でも言うが、関税が下がって安いコメが流入しても、日本の消費者は日本のコメが大好きなのだ。TPPを受け入れたら、コメ自給率が10数%まで下がる…、なんて攣れない言い方をしないでほしい。高ビーでもこんなに好きなのに、他の男がきたら乗り換えるだろう、と何という悋気で狭量なのだろう。心変わりが心配なら、これまでの無愛想な態度を悔い改め、お愛想のひとつも言ってせいぜいサービスに努めたらいい。
▼日本農業が遠からず国際競争にさらされることは、ガットウルグアイラウンド以降のミニマムアクセスやWTOの動き、盛んになっている2国間のFTAやEPAの進行を見ても、〝想定内〟のこと。それなのに、この間やってきたことは、農家の所得向上を目的にした直売所への異常な肩入れだ。個人農家の〝一人勝ち〟で、生産部会の基盤が揺いだり地域流通の弱体化を誘導し、供給の底力が崩れつつある。その結果、一部の国内需要はまたまた輸入依存へと逆戻り現象さえみえる。
▼韓国の大型農業企業がいま、日本の需要者を回って〝御用聞き〟をしている。「どんなモノを作ったら買ってもらえますか?」。国際化とはこういうものだ。
2011 9月
▼駆け出しのころ、農業用語のなかで「畜産」という言葉が理解できなかった。漠然と家畜を飼って大きくしてから出荷すること、だと理解していたが、その本当の意味を知ったのは米国取材したとき。畜産に相当する英語は「live stock」、つまり〝生体貯蔵〟という意味だったのだ。自給自足時代の名残をとどめる用語だ。しかし、普及員で畜産の専技で獣医でもあった父の仕事の関係から、少年時代に牛や山羊、鶏の世話をさせられていた経験からすると、どちらの言葉も好きではない。畜産は余りにもビジネスライクであり、live stockでは悲しすぎる。
▼当の畜産農家だって同じように思っているのではなかろうか。鶏インフルエンザや口蹄疫で?処分を余儀なくされた九州の農家、避難命令が出て家畜を置き去りにしなくてはならなかった福島の畜産農家。彼らの悲嘆ぶりを見ていると、まるで家族を失うかのようである。命をいただくことで生きていられる人間の贖罪は、せめて生命の尊厳を冒涜しないことではなかろうか。畜産をマネーゲームの対象にしていた安愚楽牧場は、畜産の畜は蓄財の蓄だとカン違いしていたのだろう。黒毛和牛の親子が、にこにこしながら牛肉パックを持ち〝さあどうぞ〟のポーズ。あのCMは明らかに生命の尊厳を愚弄している。倒産するのも天罰か?
▼牛が焼き肉を食べようとする日本食研の宣伝もアブない。だが、気をつけてみるまでもなく、トンカツ屋の看板にはニコニコする豚のキャラが珍しくない。その名前も「トン喜」だったり、「鶏友」という鶏肉専門店もある。青果物の世界だって、本当は命をいただいている。この世界は、畜産をはるかに超えた遺伝子操作や交配が盛ん。動物で例えれば、頭は牛で体は豚といった突拍子もない交配種が生まれる。だから、天の摂理を超える、と遺伝子組み換えには根強い反発がある。しかしこの季節から、交配、交雑によって生まれた美味しいリンゴやブドウ、柑橘類が出回る。生命の尊厳を遵守しつつ、ありがたく頂戴したい。
2011 8月
▼いま、日本の政治はリーダーシップに欠ける、といわれる。まとまらない政権与党の民主党、居直りを決めていた菅直人総理の首のすげ替えに、候補者が5人も出現したことであり、そんな状況に文句ばかりの〝ぼやき〟野党をも含めた、日本政治全体の体たらくのことでもある。平時ならともかく、大震災、放射能汚染という未曽有の非常時だからこそ、より求められるのはリーダーシップ。日本国民の先頭に立って、日本国がこれからどこに向かっていくべきかを指し示し、国民とともに手を取り合って邁進することだ。野田新総理に過剰な期待がかかるのも、そんな状況の裏返しだ。
▼リーダーというものは、多くの場合、その集団の総意において選ばれた者を指す。その意味では、民主党は選挙によって国民からリーダーたるべしとして選ばれ、その民主党がそのリーダーシップを預託したのが鳩山であり菅であった。それがちっとも機能しないのだから、支持率は下がり毎日のマスコミネタになって誹謗されている。民主党内もこの間、我田引水、唯我独尊の派閥争いばかりで右顧左眄、国民と日本国を考えてくれているのか?と思う。
▼一方、選挙等で選ばれたのではないが、社会的にリーダー的な役割を期待されているという状況もある。いわゆる〝リーディングカンパニー〟といわれる、業界のトップ企業などがそれに該当する。こうした企業は、自らがその地位と立場を認識してリーダー的な役割を果たすことが「社会的責務」だと自認しているものだ。
▼わが流通業界でも、わが国のトップクラスの地方市場が、「コンテナ流通こそ、流通効率化だけでなく、生産者手取りを増やす」と、各方面に説いて回っている。社会的責任を自認しての行動である。が、その一方で、流通業界の超トップ企業でありながら、マスコミを避け情報公開にも消極的、まるで〝ひとり勝ち〟を目指しているかのような卸売会社もある。その見識が疑われるだけでなく、淋しい話だ。
2011 7月
▼その数と1でしか割り切れない数字を「素数」という。素数はキッパリしていて好きだ、という人がいれば、私のように落ち着きが悪くて好きではないという人間もいる。だから、2年前に父を91歳で亡くしたとき、なんか中途半端な年で死んだなぁ、と漠然と思ったのだが…、ただ単に2の倍数ではなかっただけで、素因数分解すると7×13であった。文科系はこれだから始末に悪い。7年単位で13回生きたことになる、といっても余り意味がないが、意味のあるのは犬だ。
▼わが家のラブラドールは13歳。人間に〝換算〟する場合は7倍するから、この犬は今年で91歳。親父が亡くなった年に相当する…、などと内輪話をするつもりで「素数」の話を振ったのではない。いま大型企業は、創業以来、自己資本のみで生きてきたなどという〝素数〟のようなケースはほとんどない。素数同士が結合して、そこから生まれた合成数とさらに他の素数が加わる、といった合併や資本参加が複雑に入り乱れる。だから、現在のその企業を見ただけでは、実態や機能、実力はわからない。
▼そのためには、とりあえずその企業を素因数分解してみるしかない。とはいえ企業も生き物だから、3×5×7は105のはずが、120と相乗効果が生まれたり、相性が悪いと100になったりする。合併や統合などの効果を検証したり予想したりすることが、だから難しい。などと思いながら執筆したのが、巻頭の「食品卸と商社が大再編ステージへ」の記事。青果物の扱い規模が、あるいはその手法がどうなるか、を〝無理やり〟予測したものだ。
▼ただし、伊藤忠連合ではいずみ出身の西山章平氏が、三菱連合ではマルエツ出身の木村幸雄氏、この2人がこれからのキーマンになるだろう、という予測だけは自信がある。この、2つの強力な〝素数〟は、相手がどんな合成数であっても、大きな影響力と実行力を発揮するだろうことを知っている。
2011 6月
▼「机を買ってくれなきゃ、勉強できな~い」などと親を脅かしたものだ。そのくせ、買ってもらっても勉強はしなかった。やれ大辞典だ、学習テープだと、勉強をタテに要求はエスカレートし、いかに勉強をしないで済む言い訳を探し続けた…。「菅総理が辞めなけりゃ、震災復興を手伝えな~い」とダダをこねるだけの自民党を見ていると、わが身の子供の頃にダブってしまう。逃げてばかりいた、ただのダダっ子だったあの頃を。だから、スッパリ辞めてみたらどうだろう。本当に〝勉強する〟がどうかが分かる。
▼親を脅かし続けたツケは、自分ひとりが負えばよかったが、震災復興となると逃げるわけもいかない。これまで揚げ足取りに終始して高みの見物をしていたツケは、相当に大きいはずだ。ただひたすら復興支援を待つ被災者、被災地はもう我慢の限界だろう。大きなカネが動く復興特需に自分達が絡んでいないことを、政治的マイナスだという感覚はあっても、火中に栗を拾うリスクは避けたいという根性丸見えなところに、この国の政治家の志操貧困ぶりが露呈する。
▼わが青果物流通業界にも、まだ「法律、制度が変わらなければ、機能活性化はできな~い」とダダをこねる向きがある。開設者がうるさい、条例がじゃまだ、市場運営協議会が足をひっぱる等々から、産地側が出荷奨励金を要求するから買付集荷や営業提案もできない、産地からの指定がないから集荷ができない、県連がいい顔をしないから産地に入れないなど、青果卸売会社は文句が多すぎる。中央市場から地方市場になっても、公設から指定管理者になっても、さらに完全に民営化しても、この分だとさらに〝言い訳〟を見つけ出すに違いない。
▼市場機能の活性化には、テーマが山ほどある。あれもこれもと考えていたら、それだけで押しつぶされてしまう。まず、できることひとつでいいのだ。1品を顧客に提案し産地を説得する。そのための商流・物流を組み立ててみる、というふうに。
2011 5月
▼まだ日本国民は「自粛」している。もともと大震災前でも、消費が活発だったわけではなく景気は良くなかった。経済の先行き不安から、消費の手控え傾向にあったのが、今度は「自粛」だ。先行き不安に〝原発不安〟が相乗して、自粛というよりは〝萎縮〟している。何の罪もないレタスやピーマンがひどい安値なのも、「東北支援」の野菜売場で、決心したように買っていく主婦たちのこわばった表情もただ悲しい。
▼原発事故被害者は「国策の被害者」である、と宣言した菅直人総理はまた、薬害エイズに政府の責任を認めた当時のあの厚生大臣だった。英断である。自民党政権が進めてきた原発政策の〝尻拭い〟をするのだから、無為・無策・無能の〝野党〟自民党も二の句を継げまい。〝菅おろし〟も一時休戦して、この際、震災復興に党を挙げて協調すべきだ。政局不安は、そのまま国民の心理的不安材料になっていることをなぜ分からないのか。
▼国際的にも驚嘆の眼差しでみられている日本人の連帯感と「絆」。日本人自身も、びっくりしているその資質こそが、復興へのキーワードである。あの骨肉相食むベトナム戦争でさえ、テト(旧正月)休戦があったのだ。ただでさえ不慣れな政権運営に、これだけの緊急事態の発生だ。それをただ揚げ足取りの材料にして人気回復をしようという魂胆は、火事場泥棒の所業と変わらない。
▼日本経済と日本人は、これまで多くの国難に遭遇しながら、その都度乗り越えてきた。否、乗り越えることで、さらに以前に増して経済力や技術力を高めてきたのだ。それが、嫉妬交じりに〝焼け太りの民族〟とさえいわれた。世界各国からのさまざまな支援やエールがあるが、彼らからは所詮〝彼岸の火事〟であり、〝他所の火事は大きいほど面白い〟のである。よし、それならわれわれも、自ら火をつけよう。〝火事場の馬鹿力〟ってえのを知らないか。あの大震災が「日本人に火をつけた」と言われようではないか。
2011 4月
▼「がんばろう日本!」と自らも声を発し、世界各国からのメッセージもある。が、なぜか暗いACの社会広告ばかり見せられて、人の生き方はかくあるべし、とは思うものの、1日百本以上はありそうな放映に、気分は陰々滅々。誰もが、そこまで言われることじゃない、いいかげんにしてほしい、と思いつつこの1ヵ月を過ごしてきた。いつもは疎ましいNHKの杓子定規さが、受信料不払いながらこの時ほど〝懐かしく〟感じたことはない。
▼ようやくテレビには、明度なら数倍明るいCMが戻ってきてくれて、遅ればせながら花見でもしようか、という人心地を取り戻した。どこかマインドコントロールされていたような、奇妙な開放感がある。喪中における歌舞音曲の類の禁止にも似た、謹慎の気持ちがどこかにあるから、外で飲んで気勢をあげることに抵抗を感じるのも日本人の優しさなのだろう。市場の入荷統計を見ていて分かることは、これだけの入荷減なのに単価が激安なのは、やはり業務用需要による引きがないからだ。
▼プロスポーツも始まった。バラエティー番組も復活した。ようやく沈み込んでいた気持ちが引き立てられる気がする。さあ、これからは消費者が元気になる番だ。季節もよくなった。さあ野山へ温泉へ行楽に出かけよう。女子も男子も飲み会に戻ろう。謹慎どこ吹く風、とばかり飲んできた者の正当化でもあるが、はやり消費することは世の中が活性化するものだ。だれもが、ひとわたり義捐金を出し終わっただろう。これからの長丁場は、社会が経済活動が被災地を支援するのだから。
▼ようやく連絡の取れた被災地の友人に送った義捐金だったが、律儀にもお返しの品をいただいた。そうなんだ。いつまでも彼らはただ貰うだけの被災者ではないのだ。せめて好意には返礼するという、当たり前の生活に戻りたいのだ。だから、被災者以外の日本人も、当たり前の生活に戻ろう。がんばれ!消費者!
2011 3月
▼まさに自然界によるテロである。「3・11」の東北太平洋沖大地震は、くしくもアメリカの「9・11」のテロにも符合するかのような大悲劇であるが、かたやアルカイダに対する報復で国がまとまったが、日本は誰をターゲットに怨嗟を晴らせばいいのか。ノー天気な石原東京都知事の〝天罰〟発言はもってのほかであるが、全日本人のあまねく災害者を想う心と、さらに海外からの支援の熱さには救われる思いだ。被災地の皆さんのご健康を祈るばかりである。
▼さらに追い討ちをかけるかのような放射性物質汚染だ。いまのところ北関東の県からの一部の野菜出荷が抑制されているだけだが、品目の拡大や千葉、埼玉など南関東へと波及すると、青果物流通・販売は甚大なダメージを受ける。福島第一原発の早期沈静化は、地域住民だけでなく、関東地区の全消費者と流通業界の共通した願いだ。汚染地域の野菜を食べるより、中国産のほうがよほど〝安心・安全〟?などという事態にならなければいいのだが。
▼それにつけても、改めて疑問に思うのは、食品衛生法などの〝安全基準〟である。ホウレン草の放射性物質基準値を20倍以上オーバーしていても、毎日50gずつ1年間食べたとしても、CTスキャン1回分の放射線量にも及ばない量…、などと説明して「冷静な対応を」などと呼びかけているのだが、じゃあその〝安全基準〟って何だったんだ?ということになる。そもそも例のポジティブリスト基準0・01mgの残留農薬基準値からして、同様の問題があるのだ。生産、流通業界はいつも、この種のあいまいな〝安全基準〟とやらに翻弄され、消費者は徒に不安感を持たされる。
▼情報公開は必要だが、ほとんどが公開する側のアリバイ作りのような〝詳しすぎる〟数字の羅列で、受け取る側の納得には程遠い。この程度の放射線量であれば、ホウレン草は水洗いして、ゆで汁を煮こぼせば、6~7割の問題物質は除去される、といった消費者本位の情報公開の方法がなぜとれないのか。ひたすら役所の権威主義と事なかれ主義の所産としか思えない。
2011 2月
▼民主党の体たらくと、野党の陰湿なイジメ、〝壊し屋〟某小沢氏の本領発揮とで、先行き不透明な来年度予算。政策の是非を問う前に、カネがなければ何もできない。そもそもGDPは、どれだけ国の中をカネが回るかであるのだから、国民や企業が金を稼げない状態であれば、国がカネを使ってくれるのを待つしかない。公共事業復活論があるそうだが、むべなるかなである。古くからのカネを回す独特〝メカニズム〟なのだから。
▼もちろん、土建屋を潤すだけのハコモノ行政は、問題外である。ハードの整備は、目に見えるものだけに格好な行政のアリバイ作りになってきた。が、その目的とする「振興」「活性化」「体質強化」などにはつながらず、借金地獄に陥っている自治体のなんと多いことだろう。国からのカネ欲しさに借金までして事業をゲットしても、維持管理と借金返済のためにさらに貧乏になっていく…。一時の痛み逃れの麻薬には、深刻な中毒症状しか待っていない。
▼さすがに、そんな愚は繰り返さない、という意識も出てきてはいる。いまは大幅に減ってしまった公共事業費を、もうアテにできない、という見切りや、これ以上、財政赤字を膨らませたくないという認識があったことも事実だが、国からのカネを前提にしないで、自治体独自のソフト事業を充実させたいという気運の盛り上がりがあるのだ。これは、中央集権から「地域主権」へのシフトの流れと、軌を一にしているように見える。
▼国の事業のメニューがなくても、自治体が独自の農業政策、流通対策を創出して「予算枠」を確保。事業実施を先行させて、一括交付金などの歳入を待って充当するといった仕組みだ。国から提示される事業は、あまりにもヒモ付き、制約付き、条件付きであるために、余計なカネを使わされ、現場の個々の事情に合わない。地域が必要な事業を、実情に合わせて迅速に実施する…。こんな当たり前のことが、ようやく実行に移されようとしている。やれ、嬉し恥ずかし!
2011 1月
▼東京都が「東京都は中央拠点市場の申請をしない」方針だ、というニュースが業界を駆け抜けた。日本農業新聞による〝すっぱ抜き〟いわゆる特ダネということになるが、これに大慌てしたのが農水省当局だ。早速、東京都に問い質したり、新聞社の担当記者は誰か…などと、〝犯人探し〟に躍起。ただでさえ評判の悪い〝中央拠点市場構想〟なのに、拠点という意味では本家本元であり〝お膝元〟でもある東京都から反旗を翻されたのでは、メンツ丸つぶれだ。
▼東京都の場合は、中央市場として8市場を抱える。また都下には充分に拠点市場になりうる地方市場も存在する。取扱い規模と区域外供給という基準から、どの市場を拠点市場として申請するのか、業界としては興味津々のところであったのだが、その取捨選択に困った東京都幹部が、いっそのこと申請しないこともありうるな…、などとオフレコ発言したのが、表ザタになった、というのが真相のようだ。それにしても、実に象徴的な話ではある。
▼どこが拠点市場として認定され、どこがそこから供給を受ける周辺市場になるのか…。同じ「東京市場」でありながら、周辺市場になってしまうと荷受としての信用に大きく響くのでは、という卸売会社の危機感は強い。だから、東京都には陳情以上の圧力が引きもきらない、状態であったと伝えられる。その前提は、資格要件のある市場が国に申請し、それが認定されれば「拠点市場」を名乗れる、という仕組み。
▼申請するか否かは、開設者の判断なのだから、渦中に栗を拾うより、いっそのこと申請しないというチョイスもあるのだ。東京都の財政状態からすれば、国から補助金をアテにする必要もないのだろう。それよりもっと本質的なことは、拠点市場は認定されて初めて拠点になるのではない、ということ。市場はそれぞれの経済圏を持ち、それぞれの地域内における役割を持ち、機能を発揮している。その機能とは、拠点か周辺かという単純な構造ではないのだ。国のメンツなどは潰れていい。